反・彫刻②

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ロダン「接吻」2018年撮影

 私はもちろんギリシャから始まった西洋彫刻史の重要性は認めていますし、何なら畏怖すら抱いています。ミケランジェロやロダンがやったことは誰にも真似できません。哲学と共に歩を進めてきた「彫刻」の歴史には論理的な説得力があります。

 現象学や構造主義を具現化した様なブランクーシやジャコメッティの作品も私は好きです。それらの彫刻や絵画には空間の枠組みが(ジャコメッティの場合には、度々目に見える線や縁として)表されていますが、別にわざとらしい感じはしません。

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 しかし、日本の自称「彫刻家」が空間の枠組みなど意識すると、妙に取ってつけた様な作品になり、痛々しく見えてしまうのはどうしてなのでしょう?私はそこに立体造形の伝統や方向性の違い、或いはもっと土着的なものの見方の違いを感じてしまうのです。ヨーロッパ言語の枠組みから始まった存在論や構造主義が、どう翻訳してみても、今ひとつ日本語に馴染まないように、所謂ヨーロッパ的彫刻を日本人がなぞってみても、スケールの小さい模型みたいなものしかできません。鹿鳴館で洋装に身を包んだ寸足らずの紳士淑女が浮かれている様な、当人たちが得意気であればある程滑稽に見える、そんな物悲しさが漂うのです。

 私は「日本人に美術は向かない」と言っている訳ではありません。人物造形において、むしろ独特のリアリズムを持ち続けてきたのが日本人だと思っています。ただ、方法論の違う西洋彫刻史にそのまま合流しようとするのは、若干無理があると感じているだけです。言語に論理性を求め、形にも構造と全体的調和を大切にしてきた西洋に対し、日本では思想や言葉に柔軟性や曖昧さを残し、人の意思表示以上にその表情を読むということが行われてきました。欧米のカリカチュアは文学性とコンセプトで見せますが、その代わり日本には写楽や山藤章二が生まれました。

 私は人物像を造る時、作品全体の枠を決めて配分するということをしません。つくりたい人が決まったら、取り敢えず顔を拵えてみます。落語の枕の様に、まずは全体に繋がるきっかけを掴みにいく訳です。顔さえ決まれば、後はもうこっちのものです。私の技法の性質上、形を加えることも引くことも自在ですから、やろうと思えば、頭像を等身像に仕立てることだってできます。トルソを大切にする西洋彫刻とは違って、私の興味は目の前の人の見えている部分、顔とせいぜい手までに限られています。何なら、後頭部だってカットすることに躊躇いはありません。(どうせ服で覆われている)胴体なんて布をピンでとめておけば充分、という我田引水的独断が今回の大きなピカソ像になりました。そういう訳ですから、やっぱり「これは彫刻じゃない。」と言われても仕方ありませんね。