
2026年 36cm×26cm 一版多色刷木版画
春に描いた平林寺の雑木林の水彩画を一版多色刷の木版画にしてみました。白い画用紙にスケッチした原画を、黒い紙に重色で表すので、雰囲気はだいぶ変わります。表現としてはどちらにもそれぞれの良さがありますが、版画にすると、絵から臨場感が減ってやや様式的になり、代わりに少し重厚さは加わるかもしれません。ノンフィクションの武蔵野の雑木林が童話の森に化ける感じですかね。

2026年 110cm×65cm×90cm 麻布、樹脂、漆、木、他
昨年秋、下呂アートディスカバリーへの参加の打診があり、展示会場の下見をして欲しいとのことだったので、一泊ドライブ旅行に出掛けました。中津川から下呂までの間に、「付知(つけち)」というどこかで聞いた町名の看板がありました。なんだっけ?と思っていると、交差点に熊谷守一記念館の表示を見つけて、「そうか、ここは熊谷守一の出身地だった。」と気づいたのでした。

下見を終えての帰り道、せっかくなのでその記念館に寄ってみることにしました。瀟洒な二階屋の展示室には、熊谷守一の油画や書、愛用の道具や写真などがゆったり並べられています。さらに屋外には、守一終の住処となった、千早町の家(現在は豊島区立熊谷守一美術館)の庭が同寸で再現されていたのが傑作でした。記念館にも何枚か飾られていましたが、藤森武さんという人の撮った写真で、この庭や家の中で過ごす守一の姿をたくさん観ていたので、そこに身を置きながら懐かしい気持ちになりました。
前にも一度、小像をつくったことはありましたが、今回は等身で、また熊谷守一像に挑戦してみようかな、とその時思いつきました。縁側で懐いたカラスを頭に留めた場面と、子猫を手に乗せたところを藤森さんの写真集「独楽」で見つけ、それらを元に立体化したのがこの作品です。岐阜に里帰りした守一を、下呂アートディスカバリー2026で初めて展示できるのが楽しみです。

2026年 25cm×33cm 紙、鉛筆、水彩
荒川の河川敷でチョウゲンボウが観察できるというので、新荒川大橋から東北本線・埼京線・京浜東北線の三本の鉄橋の辺りまで、両岸を歩いてみました。前にも書きましたが、私は高校生の頃(もう50年近く前)、自宅のベランダに飛来した雌の成鳥を捕まえて飼っていたことがありました。餌代は嵩みましたが、肩に乗るほど懐いていたので、チョウゲンボウには少しばかり思い入れがあるのです。
しかし、結局この日会えたのは水鳥とカラス、鳩、雀、燕だけで、猛禽の気配もありませんでした。季節と時刻が遅すぎたかもしれません。今度はもう少し涼しくなってから、早朝に来てみようと思います。汗だくになりながら、せっかくここまで来たので、三連のJR橋梁が掛かる荒川の風景だけでも描いていくことにしました。
梅雨が明けたのかどうか知りませんが、ここのところ急に蒸し暑くなりました。外で元気にスケッチできる季節はお終いです。しばらく炎天下での活動は自粛したいと思います。蚊に刺されながら、そろそろ引き上げようかと腰を上げかけた時、私の目の前を、大きなシマヘビが鎌首を持たげたまま、きれいに正三角形の波紋を残して泳いでいきました。

2025年 88cm×80cm×90cm 麻布、樹脂、漆、木、他
旦那の方には、茶席の主客になってもらいました。日本人とは言え、私を含めたほとんどの市井の人たちが正式な茶席を経験する機会など、まずありません。万一私がそんな場面に出くわしてしまったら、ヒヤヒヤしながら、(正座もできないので)ぎこちない胡座でやり過ごすのが関の山でしょう。

でも、文学や美術を通して、茶の精神というのは何となくわかります。おそらく侘びとか寂びと表される美意識は、茶道が成立するずっと前から、日本人の内に備わっていたものと思われます。放っておけば緑に覆われてしまう恵まれた自然環境で、縄張りや所有を主張する必要もなく生きてきた人々にとって、富や権力は自分とは関わりのない他所ごとだったのかもしれません。いつの時代も慳貪や吝嗇、無駄遣いは低俗と見做され、名利よりも文化を好む人たちの中には清貧の思想が醸成されていきました。不完全なものや古びた物の中に美を見出すとは、おそらく今ここに在るひとつの物に永い時間・広い世界を重ねて観ることなのでしょう。
さて、一昨年、夫妻は遠く山陰に引越すことになり、一期一会という気持ちも込めて私は「待庵」という作品を構想しました。が、何のことはない。二人がなんやかやで上京する度に一杯やっているので、東京の友人たちより余程頻繁に会っています。また近々下呂でも遭遇するかもしれませんし。

2025年 93cm×60cm×60cm 麻布、樹脂、漆、木、他
友人夫妻をモデルにして、利休の「待庵」を建物無しで表してみようと思いました。夫人には、本来茶席でNGとされる大島紬の着物を敢えてリクエストし、隅切畳で茶を点てる亭主になってもらいました。

利休は、屋敷の見事な朝顔の噂を聞いた秀吉から「是非観たい」と所望された際、茶室の床間に一輪だけ生け、あとは全部摘み取ってしまった人です。その利休が削ぎ落とすだけ削ぎ落として拵えた、僅か二畳の茶室が待庵です。しかし、二畳間とは言え、そこが利休にとって全宇宙に連なる発射台であったことは間違いなさそうです。
「日本文学史序説」を書いた加藤周一は、文学の定義を①経験を具体的特殊性において表現したものとした上で、そこには②作者の世界全体に対する態度を前提として含まざるを得ない、と述べています。文学に留まらず、それは美術、或いは芸術全般についても言えることではないでしょうか。「待庵」は正に、茶室という現実の制約の中で、利休が到達した思想を示す空間たり得ていると、私は思います。
作品の大小に関わらず、それぞれの表現の内に一つの世界が捉えられていなければ、それをアートと呼ぶことはできません。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という芭蕉の句は芸術でも、100ページを超える電化製品の取扱説明書が文学作品と言えないのはそういう訳です。私も造形作品をつくるにあたっては、一つ一つにその時々の自分の世界が表れていることを願いますが、但し安易な物語(ナラティブ)に流されない様に用心しています。口だけで説明できる美術では意味がないですし、そもそも世界に単純化された思想ほど危険なものはありませんから。
さて、この作品のために、私は京間の畳を二枚(もちろん井草でなく麻張りで)つくりました。でも、「下呂アートディスカバリー2026」で私の展示会場となる南飛騨健康増進センターには、お誂え向きの畳敷スペースがあったので、今回つくった畳は封印し、そこをそのまま使うことにしました。そんな訳で、「待庵」とはちょっと違いますが、ひとつの点前の場面を、それだけで完結した世界として、展示したいと思います。