仏頭

2022年 高93cm 麻布、樹脂、漆、他

 奈良の興福寺国宝館にある仏頭を原寸に近い大きさでつくってみました。壁に掛けられる様に頭の後側はカットしてあります。TARO賞展では、美術館の天井の高さを利用して、この頭部が元々あったであろう位置に展示してみたいと思いました。

 仏像には丈六(じょうろく)と言われる基本サイズがあります。立像ならば一丈六尺、現代の寸法にすると約480cm、坐像の場合はその半分です。この像は薬師如来立像ですから、本来の顔はこんな高さにあったはずです。実際に飾ってみると、制作中はデカいと感じていた顔が思った以上に小さく、すらりとした八頭身だったことがわかりました。

 この仏頭は正に数奇な運命を辿ってきた、としか言い様がありません。諫言によって自害に追い込まれた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の私寺であった飛鳥の山田寺を、石川麻呂の孫娘(後の持統天皇)が再興し、その本尊として薬師如来像が完成したのは西暦685年。そして、平重衡の焼き打ちで興福寺が全焼した後、僧兵により山田寺から強奪され、東金堂の本尊として安置されたのが1187年。その後、1411年、五重塔落雷からの延焼で薬師如来像は永遠に失われてしまったものと思われました。ところが1937年、東金堂解体修理中、今の本尊の台座の中から、何と500年ぶりに、この姿で発見されたのです。

 実際につくってみると、とても難しかったです。一見白鳳時代の素朴な造形の様ですが、実は全ての角度から違う表情が現れる、恐ろしく微妙で魔術的なラインを持った像でした。先日の修学旅行でも国宝館に寄ったので、もちろん実物に再会してきましたが、やはり画像を元につくったものとはだいぶ違っていました。写真と写真の隙間を想像力で埋める時に、どうしても作者の物の見方の傾向が現れてしまいます。私の場合、形があやふやだと、つい西洋彫刻的なプロポーションに近づける癖があるかもしれません。この仏頭もそうですが、天燈鬼像などは更に私の作品と実物がかけ離れていて唖然としました。自分で言うのも何ですが、私のつくるものの方が垢抜けていて、実物の持つ泥臭さや大らかさに欠けるのです。

 これは制作において「どこまで粘れるか」という問題とも関係があります。私などはなまじっか小器用で、形を拵える苦労がないせいか、あまり長時間一つの対象にこだわり続けることができません。例えば、この仏頭をつくるとなれば、できる限りの資料に目を通し、私なりに精一杯思い入れを蓄えた上で制作に臨むのですが、それでも造形がある程度進むと「もう良いかな?」と。つまり飽きてしまうのです。仕方ないので、漆を塗って打ち止めにする訳です。そして、今回の様に、たまたま実物に出会う機会があると、また冷水をぶっかけられた様な衝撃を受ける事になります。

 ただ、作品というのは所詮そういうものだ、という気持ちもどこかにあります。結局、ものづくりとは、その時その時の作者のトライアルでしかなく、その意味では不完全だからこそのアートとも言えるのです。私もピカソの顔などいくつ造ったか知れませんが、ようやく最近、少しだけわかってきたところなのかもしれません。作者は一つの作品で世界の全てを現そうと目論みます。然るに、たった一つの肖像でその全人格を表されてしまう様な人には、そもそもモデルになる資格なんてない、とも言える訳です。見るものと見られるものは、矛盾を孕んだ関係の中で、時間軸上に不満足な証拠をぽろぽろと落としながら進んで行くしかありません。