「村上一品洞」について③

 新型コロナの影響で色々な施設が軒並み休業しています(甲子園も結局中止になってしまいました)が、TARO賞展は奇跡的に継続中です。これも生田緑地という広大な自然公園内にある立地の良さと、岡本太郎美術館の開放的な内部空間のお陰なのかもしれません。ここまで来たら、是非最後まで頑張ってもらいたいものです。

 さて、先日来このブログのコメントに私から返信できなくなっていますが、実はそれだけではありません。面倒なのでそのままにしていますが、私の意図とは全く無関係に、本文の文字フォントが変わってしまうのです。別に私は文や文字を視覚的に飾ることに興味ありません。メールでも絵文字や(笑)なんて使いませんし、できれば「ただの文」が書きたいのです。多分、私の太い指が、知らないうちにどこかに触れてしまった結果なのでしょう。ならば仕方ありません。諦めて、前回の続き(ギャラリートークの代わり)を書き進めることにします。文字が勝手にゴシック体になっていたとしても、あまり気にしないでください。

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 向かって右側の壁面には水彩画を20点と木彫時計、壁沿いには娘が生まれてから小学生までの間に作った木製玩具を順番に並べてみました。水彩画の下の列5枚は誕生翌日〜高校生の娘の肖像です。その成長に合わせて、ベビーメリーがわりのモビールからままごとキッチン、ドールハウス、初めての学習机まで自作しました。美術作品というのは、一般的に、不特定多数の観覧者を想定してつくられるものだと思いますが、このコーナーの作品群は、贅沢にも、たった一人を喜ばせるためだけにこしらえました。しかし、父の苦労の割に娘はあっさりしたもので、どれもそれ程長い期間遊んでいた覚えがありません。

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 左側の壁面には、彫刻と同じ麻で自作したキャンバスに墨や岩絵具で描いた絵を6枚展示しました。多分13〜4年前の作品だと思うのですが、よく憶えていません。大きな絵のモチーフは、私の場合、何となくいつも水と木と岩になってしまう様です。左から長瀞、御嶽渓谷、日原川源流の風景を描きました。これらの絵も、岡本太郎像も、陶器が並べてある台も、素材は全部一緒なので、バラバラな表現でも、それ程違和感なく収まっているのだと思います。絵の茶色や仮縁、作品台を塗るのには柿渋を用いました。

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 中央のこの絵と、その下に展示している3つの織部焼の四方鉢は、形とデザインをシンクロさせてみました。

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 私にとって焼き物の理想は桃山陶です。それ以前にもそれ以降にも大して興味はなく、陶芸で新しい表現をしたいなんて野心はさらさらありません。自分が欲しい器を手にするためには(買うとなると恐ろしく高いので)作るしかないというだけの話です。だから、殆どの私の作品には本歌(元ネタ)があります。こと陶芸に関しては、オリジナリティなんてことには一切関心がなく、只々桃山時代の技術を追いかけることしか考えていませんでした。もう久しく土には触っていませんが、5年ぐらい前までは、結構入れ込んでいたものです。その内また、波がやって来たら、今度こそ自分の窯でも持とうと思います。

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 もしかすると、陶芸に限らず、私にとって制作とは「欲しいものをつくる」ことなのかもしれません。自分の手で何かを「所有したい」という気持ちが大事です。手に取って使うことができない器なんて、私には無価値ですし、触感を楽しめない木製玩具もいりません。最近の風潮で、何でもデジタル化して所有できると思いこんでいる人がいますが、それは違います。電子書籍なんて、せいぜい使い捨てレベルの本にしか向きません。恥ずかしくて自分の本棚を人目に晒せない輩には便利なんでしょうかね。その心理はわかりません。人間、そうは言っても結構マテリアル(物質主義的?)な生き物です。何でもバーチャルで我慢できる人はそれでもいいですけど、少なくとも私は無理です。

 私が「美術は滅びない」という意味は、世の中の何割かは、私と同じく、ものを「所有したい」側の人だと信じているってことです。今回の「村上一品洞」の副題は「美術の力」ですが、その英訳を"ANTIFRAGILE"にしました。ナシーム・ニコラス・タレブはこのタイトルの本(邦題『反脆弱性』)の中で、長い年月保ってきた物が新しい物より、この先も長持ちする可能性=「リンゼイ効果」ということについて語っています。つまり築1300年以上の法隆寺の方が、新築のプレハブ住宅よりも、22世紀に残っている可能性が高いという訳です。美術の世界でも、日々新しい表現が生まれては消えていきますが、結局生き残っていくのは昔ながらのアナログ作品ではないか?という思いが、この副題に込められています。そして実は私がその鍵ではないかと睨んでいるのが、人間の持つ「所有欲」です。美術とこの「所有欲」についての問題は、色々興味深い内容を含んでいる気がするので、またいつか改めて考えてみたいと思います。