掌(阿修羅考)②


 明治の半ばに撮影された興福寺の写真には、当時の仏像をめぐる痛ましい状況が記録されています。今でこそ日本の至宝として大切に展示されている像たちが、廃仏毀釈の時流の中で、ガラクタの様に寄せ集められています。八部衆や法相六祖坐像、金剛力士像や運慶作の無著・世親立像までが、粗末な一室に所狭しと並んでいるのです。阿修羅像はと言えば、右前の腕と上に振り上げた左腕を途中から欠いており、胴には売却札のようなものまで貼られています。今回の私の模刻では、修復前のこの状態を再現することにしました。
 ところで、明治時代の写真を一見してわかるのは、胸の前に残された左手の角度が明らかに現状と違っていることです。20世紀になって、欠けた腕は補修され、阿修羅像は合掌した姿になりましたが、元々そうではなかったことが前々から指摘されていました。確かに、残っていた左掌は身体の中心から大分外側に開いていました。さらに、その後補修された右の二の腕は、左に比べて不自然に長くなっているのが分かります。冷静に考えれば、右の掌は上向きに宝珠か何かをのせ、左掌はそれに添えられていた、とする見方には説得力がありそうです。

 法隆寺五重塔の一層北面に、釈迦涅槃の場面を表した、塔本塑像と呼ばれる群像があります。その中の一体に、興福寺の像のモデルとなったと思われる阿修羅像があります。こちらは粘土で作られた塑像であり、かなり小さく、座った姿で表されているのですが、手の造形から髻(もとどり)や身に着けた衣類まで、あらゆる点でよく似ています。彫刻や絵画で阿修羅は、眼を見開き、牙をむき出した、鬼のような姿で描かれることが一般的ですが、法隆寺のものと興福寺のものだけは、例外的に、哀しみをこらえたような、人間的な表情をしています。多くの共通点から、私が興福寺の阿修羅像の元ネタだと考えているこの像も、やはりと言うべきか、合掌をしていません。掌こそ失われているものの、両手首は上下に交差するような形で残っているのです。
 昔、どこかの先生が、阿修羅像の手を「信心(合掌)が、煩悩や邪心によって崩れ、広がっていく様子を連続的に表している。」という面白い説明をしていました。それはそれで、なかなか魅力的な解釈だとは思うのですが、造形的な観点からすると、残念ながら「そうではなかった。」と言わざるを得ません。実際につくってみて、それは確信になりました。もし阿修羅像が合掌していたとすると、両手をバラバラに造形するなんて考えられません。初めから両手を一体化して造る方が、成形する時も乾かす時も合理的で、構造的にも強くなります。片腕だけが折れて無くなるということもなかったと思います。大体、合掌していたのなら、左手の掌はつくられず、そこには大きな穴が開いていたはずです。明治の写真に掌が写っているということは、それぞれの手が独立していたことを示していると言えるでしょう。頭では考えつかなくても、こうして自分の手でつくってみると案外理解できることがあります。
 さて、阿修羅像については、まだまだ謎がたくさんです。恐らく高く上げた両手には日輪と月輪を持っていたのだろう、と言われていますが、手のつくりからすると、薄い円盤をつまんでいたようには見えません。かと言って、天平時代に太陽や月を球体と認識していたとは考えにくいので、となるとバームクーヘンみたいな輪を掌に載せていたのかもしれません。「毒を喰らわば皿まで。」やっぱりこの阿修羅も全身像にして、もっと色々と確かめてみなきゃいけないかな?と思い始めたところです。