本阿弥光悦 ②

 今年は年明け早々、修学旅行の下見を兼ねて、京都に行ってきました。せっかくなので、私は同僚たちよりひと足先乗りし、生徒と一緒には行かない所を見て回りました。鷹が峰の光悦寺もその一つです。正月4日、下鴨や上賀茂は初詣の人で賑わっていましたが、ひと月前、紅葉目当ての観光客でごった返していたであろう、この小さな寺に参拝者は疎らでした。

 教員になって初めて引率した修学旅行でこの近くに泊まったので、おそらく連れて来られたことはあるはずなのですが、全く記憶に残っていません。それもそのはず、当時は美術教師なんて名ばかりで、建築や庭はおろか、日本文化全般に興味がなく、本阿弥光悦のことなど何も知りませんでした。血気盛んな年頃は誰でも「今、ここにいる自分」中心で、美術の好みも「俺が!俺が!」的な表現偏重になりがちです。私の場合もまさにその通り、つくるにせよ、観るにせよ、自己主張の強い洋風のものばかりで、そこに日本の文化など入る余地はありませんでした。一旦西洋を経由してしまったら、ある程度歳を重ねて、構造主義的なものの見方が身につかないと、和の良さに気づくことは難しいかもしれません。自分から離れられない実存主義者に「無常」を理解しろと言っても無理だと思います。こうして随分回り道はしましたが、やっと私も自分の意志で光悦寺に辿り着きました。 

 光悦寺の一番奥から、ここの地名にもなった鷹が峰を臨むことができます。林屋晴三氏は、この山容が「舟橋蒔絵硯箱」を思わせる(日本の美術101 光悦、林屋晴三編 至文堂・1974年)と書いています。なるほど、異様に盛り上がったあの独特のフォルムは、言われてみればこの形かもしれません。

 1615年、家康から下賜された当時、この辺りは辻斬りや追いはぎが出没する物騒な土地で、体よく都払いされたような具合でしたが、光悦は一族を引き連れ喜んで移住したようです。本阿弥家が熱心な法華宗徒であり、光悦町は必ずしも芸術村でなく、法華信者のコミュニティであったとする見方が今や有力です。確かに光悦の住居(現在の光悦寺)を中心に50件以上が並ぶ古地図に俵屋宗達の名前が見えません。色々な作品でのコラボレーションを思えば、当然近くに住まわせたはずですが、そうしていないところを見ると、芸術制作を第一、唯一の目的とした町ではなかったかもしれません。とは言え、光悦が本格的に作陶に取り組むのは鷹が峰に住むようになってからですし、意気込んで芸術村をつくった訳ではなかったにせよ、結果的にここが晩年の創作の拠点になったことも事実です。寧ろバウハウス的な仰々しさがない分、毎朝の茶事のように生活の一部と化した、ものづくりの喜びが光悦町には満ちている気がします。