イデアについて ①

 最近、右眼の調子が悪く、彫刻作業がはかどらないので、しばらくの間、木でも削っていようと思います。何年か前に買った、ちょうど良い花梨(カリン)材がいくらかあったので、スプーンを作ることにしました。スプーンというのはもちろん実用品ですが、いざ削ってみると、なかなか有機的で抽象彫刻とも言えるフォルムをしています。1920年代、シュールリアリズムの世界にいたジャコメッティも「スプーン女」(1926年)、「横たわる女」(1929年)といった、楕円形の凹面で表した女性像を繰り返し造っています。今回の私の目標は、見て、触って、使って 良い形の「スプーン彫刻」を仕上げることです。

 こういう物は一本だけではよくわからないので、とりあえず6本作ってみることにします。右の粗彫りから始めて、だんだん左のような形にしていきます。スプーンは平べったいイメージがあるかもしれませんが、実はかなり立体的で、首や柄のカーブが使いやすさの大事な要素であることがわかります。

 以前、「哲学について」http://d.hatena.ne.jp/murakami_tsutomu/20110919という題で、ヨーロッパ中心の世界史がプラトニズム(プラトン主義)の上に発展したことを書きました。さすがに自然を単なる物質ととらえる精神至上主義や科学万能信仰が、21世紀のここにきて、行き詰った感は否めません。かといって、プラトンを全否定するだけでは停滞を打開できないことも確かです。
 プラトンは物の実体の上に、「イデア」なるものを想定しました。実際に「ここにスプーンがある」とすると、目の前のスプーンの上には、「これこそがスプーンである」ところの究極のイメージとしての理想形(=イデア)が重なっているというわけです。こうして、日本語の「ある」や英語の“be”が、「〜がある」という意味に加えて「〜である」というイデア的意味を持つことで、ヨーロッパの存在論の流れがつくられていった、とハイデガーは説明しました。存在を事実存在と本質存在に分け、肉体に対する霊魂の不滅を主張するようにイデアを崇めることで、人は現実の存在や身のまわりの自然から離れて、バーチャルな世界に向かいやすくなります。アキバ系歴女(レキジョ)なんかと同じように、私の周りで「イデア論」はあまり評判がよくありません。
 しかし、事が「制作」に関する限り、それはいかにも妥当な論だと、私には思えるのです。自分の手に合った(他の人にはちょっと大きいかもしれません)スプーンを削り出していく作業中には、確かに「イデア」と説明した方が分かり易い「天の声」が割り込んでくることがあります。突飛な発想とは対極に位置する、制作物があるべき姿に近づくための後押しをしてくれる、強い流れのようなものを時々感じるのです。