見立てについて ①

 今年の後半は、いろいろなところに文を書いたり、人前で話したりする機会が多くて疲れました。何より、説明や言い訳ばかりに時間を取られて、肝腎の制作ができないのはこたえます。そろそろ右脳中心の生活に戻さないと、心身が委縮したまま固まってしまいそうです。

 さて、作文でも演説でも、その始め方は大切です。話の枕さえ決まれば、後は段取り良く要件を伝えるだけで済みます。書くにせよ、話すにせよ、語るべき内容があれば、すんなり言葉は繋がっていくものです。ただ、その初めの一歩がなかなか難しいのです。締切が決まった原稿に向かう時、私の場合、まずは何でもいいから書いてみます。デタラメだろうが、法螺話だろうが構いません。兎に角、手掛かりになる言葉がないと、ちっとも話が進まないのです。
 アクションの「きっかけ」は、美術の場合、さらに大事かもしれません。真っ白いキャンバスより、他人の絵を潰す方が描き易いということがあります。水彩画や水墨画で、画用紙や和紙の汚れやシミを利用するのも常套手段です。彫刻制作となると、適当に付けた土塊や材の個性の中に、よりリアルな形を見つけることが重要になってきます。自分の抽斗(ひきだし)にあるものだけでは、制作時間や鑑賞時間に耐えられる程、面白い作品にはなりません。常に思いもかけぬ側に投機し、方向修正しながら、具象彫刻にさえも(理性や計算では)予測不可能な要素を含ませていくことが必要だと思います。こういった、作品になくてはならない偶然性を捉える感覚を、日本人は『見立て』という特有の言い方で、昔から大切にしていました。

 茶人は信楽焼の小壺を人に見立てて『蹲(うずくまる)』と呼びました。枯山水の庭も、舟や蓬莱山に見立てた石組みがされています。見える形を取っ掛かりにして、見えない部分を補いつつ、その景色を楽しむ「見立て」は、日本人の想像力の原点と言えるかもしれません。