読書について ①

 読書と彫刻を造ることは似ています。制作中に相手を見、見返され、刀で削り、撥ね返されることを、私は前に「対話」と表現しましたが、読書こそまさに対話です。優れた本の中で作者はずっと生き続けています。読むという行為は決して受動的でなく、時に崖から飛び降りるような勇気や相手の立場で話を聞く忍耐力を要求したりもします。『羊の歌』(岩波新書・1968年)で加藤周一が「本を読んでいては、本を書く暇がないだろう」と時々自分にいいきかせる、と書いています。別に創作なんかしなくとも、確かに読書は完全な営みになり得てしまうのです。バトンを先に繋げていく義理さえ考慮しなければ…、つまり何かを残すべき家族や子供もおらず、自分一人が暮らすのに困らないだけの収入があれば、読書三昧の一生というのもそれはそれで悪くないと思います。

小林秀雄2012-01-14 - 村上力(むらかみ つとむ)ブログ美術館
 ただ、彫刻を造ることと少し違うのは、読書の場合「対話」が自分一人の人生で完結してしまうことです。本人の中でどれほどのドラマがあったにせよ、周りの人はせいぜい書棚からその人の知的冒険を想像することしかできません。それに対して、造ることには残された作品から新たな対話のページが開かれる可能性が含まれています。本よりずっと厄介なゴミを量産する危険性は否定できないものの、例え少数だとしても作品に何かを読み取ってくれる人がいるかもしれません。それを観る人の中で作者が生かされ、何かの助けになるのであれば、彫刻を残すことも全く無駄とは言えないはずです。