彫刻について ④

 大学生の時、2週間ばかりテレビ局で美術のバイトをしたことがあります。大して興味もない時代劇でしたが、そのとき主演していた大物女優には驚きました。撮影が終わって楽屋から出てくると、さっきまでのヒロインと同一人物とはとても思えません。サングラスはかけていますが、小柄で地味なおばさんが別に偉そうにするでもなく、「お疲れ様」と帰っていくのです。全く恐るべき化粧の威力でした。でも案外プロの女優というのはそういうものかもしれません。期間限定の美人よりも、化粧のりの良い肌と何でも着られる体型を維持する人の方がきっと一流なのでしょう。

「大橋先生」(「昭和」2011-11-06 - 村上力(むらかみ つとむ)ブログ美術館より)
 色を着けることによってかなり形を誤魔化せることは確かです。普通の人は何かを見るとき、色と形を分けてとらえるような訓練をしていませんから、着彩のあるなしで物の形を随分違えて見ているはずです。彫刻に化粧を施すと印象はがらりと変わります。下手な彫刻でも、てっとり早く実在感を出したいと思ったら、色を塗るに限ります。日本各地の伝統的な土人形、例えば伏見人形や古賀人形の色を落としてみると、殆ど起伏のない土塊であることがわかります。こけしに至っては球と円筒を繋げただけです。言うまでもなく木地は単純な方が量産に向きます。量を持った塊でさえあれば、あとは絵付け次第で何とでもなります。それだけ人間の視覚に占める色の力は絶大ということです。
 さて、もう25年も前になりますが、舟越桂さんの作品を初めて観た時、とても新鮮に感じました。彩色され玉眼をはめ込まれた半身像はリアルで、それまで観たことのないものでした。当たり前の木彫やブロンズに慣れた私の目に、色のついた彫刻がとても魅力的に映ったことを覚えています。でも、よく考えてみると伝統的な日本の彫刻というのは天平時代から彩色されていたのです。平安時代末には玉眼も使われ始め、いよいよ仏像の写実的表現はピークに達していきます。今でこそ当時の彩色は剥げ落ち、肌も風化していますが、800年前は運慶も快慶も皆きらびやかだったはずです。近代では平櫛田中が『鏡獅子』をはじめとする彩色彫刻の傑作を残しています。
 寧ろ明治以降、西洋からミケランジェロロダンが入ってきてから、フォルムだけを至上とする純粋彫刻的概念に日本が呑み込まれてしまったとも言えるのです。本来、日本人は殊更に形と色とを区別していませんでした。自然の状態で一緒にあるものを何故敢えて要素に分けなければならないのか?そこにヨーロッパ哲学の伝統を感じると言ってはちょっと大袈裟でしょうか。こうしてみると、逆に色のない彫刻はどうなのか?という疑問も湧いてきます。元々色の違いとして人間の目に捉えられる部分、例えば眉毛とか唇まで凹凸で表すことで無理が生じることもあるでしょう。また『鏡獅子』のように着物が舞台上での、ひいては彫刻としての性格を決定するような作品では、どうしても彩色が不可欠と感じます。もちろん大理石とかブロンズが着色に向かなかったという素材の問題もあったでしょう。が、やはり日本人の感覚からすると、色のない彫刻には欧州人が得意とする抽象的なゲーム性といったものが見て取れるのです。
 別に、私も自分の作品で必要以上に色を出しゃばらせるつもりはありません。形の拙さを着彩で繕っていては、彫刻として、本末転倒です。だからと言って色を無視するのもどうかと思います。ここは日本ですからストイックに西洋彫刻(哲学)の伝統に従う必要はないですし、自信を持って自分のリアリズムを追及していけばいいでしょう。そのために、形は形に語らせ、色は色に語らせるのが自然かもしれません。