展覧会について ③

 個展の最終日にのこのこやって来て、「枯木(みたいな爺)も山の賑わいだな。もっと、その辺にいるピチピチしたネエちゃんでも造ったらどうだ?」なんて好き勝手なことをほざいていった男がいます。前原冬樹(まえはら ふゆき)という彫刻家です。お互い19歳で知り合ってから、もう30年以上になりました。私と同じ大学(日大芸術学部)を中退し、何年間かプロボクサーをやった後、芸大の油画科に入り、卒業してからは彫刻で食っているという変わり者です。
 ただ彫刻とは言っても、その作品は彫刻史に類のないもので、人体を表現することは殆どありません。木彫と彩色で、ものの形を恐ろしくリアルに再現しているのですが、その題材は干からびた柿とトタン屋根とか、錆びた空き缶とか、ビーチサンダルとか、凡そ誰にも彫刻されたことのないものばかりです。わざわざ何のために壊れやすい木を使って、壊れにくいもの、或いは壊れてもいいようなものを〜有刺鉄線やタイルやトランプまで〜彫らなければならないのか?本人は自分のことを「ひきこもり」と言うだけあって、常人離れした集中力と技術を持っているのですが、別に腕の良さをひけらかすためにやっている訳でもなさそうです。どうも私には、奴の関心が「ものの形」より「その場面」にあるように思えます。言ってみれば、観る人(=かつての自分)をその場の主役にするため、凝りに凝って舞台装置を作っている感じでしょうか。ひとつひとつの作品にはストイックな写実に収まりきらない、ちょっと人を食ったところがあるのです。

 百聞は一見にしかず、実作品を見られるといいのですが、無理ならばネットで画像を検索してみてください。まず誰もが「これ、本当に木でできてるの?」という感想を持つはずです。至近距離から実物を見ても、その完成度には驚かされます。初めて作品を目の当りにすると、確かにリアルとしか言いようがないかもしれません。ところで、そのリアルとは一体どういうことでしょう?今回の芸術センターの個展では、私の作品にすら、「リアル」という言葉がよく聞かれました。まあ、感心してもらえるのであれば嬉しくないこともないですが、そればかり言われ続けるとだんだん面倒になってきます。終いには糞真面目な顔で、マダム・タッソーと比較される始末です。でも、実は私がつくりたいのは「本物みたいなもの」ではなく、「本当の場面」なんだと言っては生意気でしょうか。「そっくり」はどうしても素直に褒め言葉として受け取れないのです。「似ている」ことは大事ですが、あくまでも作品世界へ入るきっかけにすぎません。言わば作者としてのサービスです。もしかすると前原の場合も、見かけの「リアルさ」は、観る人に対して奴が示す、精一杯の誠意なのかもしれません。