學校 ②

2024年 430cm×450cm×450cm  mixed media 

 私の造形制作における基本原則がいくつかあります。取り敢えず思いつくままに挙げると…。

①一人でつくるということ。私自身がとてもせっかちで衝動的なので、人との協働に向いていません。それに、美術制作=優雅な活動と勘違いされがちですが、ほとんどは単純な肉体労働です。今回のバベルの塔について言えば、アーチ上のどうでも良い四角の小窓だけでも250以上あります。切傷の絶えない虚しい作業は何時間も続き、やっぱり気に入らないからやり直しなんてことはしょっ中です。誰かに頼む訳にはいきません。自作の奴隷は自分一人で充分です。

②造形作品に時間の要素(音響、映像、動力などによる動き)を入れない。人間である以上、美術だけでなく、全ての表現のテーマが「時間」だと私は思っています。そのためにピカソはキュビズムを捻り出し、プルーストは何千ページも費やして時を見出そうとしました。ハイデガーが存在と対置したのは、不在や無ではなく、時間でした。もちろん表現方法によって時間の捉え方は様々です。既に流れをその内に含む、音楽や映像のアプローチは造形表現と違って当然です。ただ美術作品の中に中途半端にそれらを取り込むことが、強い表現に繋がると私には思えないのです。数分ごとに繰り返される映像や音声の断片によって、美術作品が持つ無時間性というアドバンテージをみすみす手放している例はいくらでもあります。「時間」をコマ切れの試食品みたいにしてしまってはいけません。

③「死」を具体的に表現しない。死に限らず悍(おぞま)しいものはつくらない。それは禁じ手です。死体や残虐なものが人の目を引くことは確かですが、それを実際に描くのは反則でしょう。今さら教員ぶって公序良俗を言うつもりはありませんけど、そこは品性の問題です。私が中学生の時、ライオンが人間を喰い殺す「グレートハンティング」という仕様もない映画が流行ったことがありました。美術作品におけるリアリズムも行き着くところは本物の死体、猟奇殺人となりかねません。「メメントモリ(死を想うこと)」は大切ですが、それと死体を表現することとは別です。論理的に何故いけないのか説明できないとしても、ダメなことはダメなのです。

 ただし例外はあります。今回のレヴィ=ストロース像は木工家の友人がつくった椅子に座っていますから、共同制作と言えなくもありません。木彫時計を作ればムーブメントと針は取り付けますし、絶命した小鳥や蝉をスケッチしたこともあります。そんな訳で、あくまでも原則なので厳密にではないですが、少なくともこの辺は意識しながら作品をつくっています。古い奴だとお思いでしょうが。