チームに加わるということ

 副校長から学校だよりに原稿を書いてくれないか?と言われたので、今週書いて出しました。そう言えば、転勤したままで挨拶状も作っていなかったので、ここにも載せて、私の近況報告代わりにしたいと思います。ちょうど、就職した頃に画材で散らかった自分の部屋を描いた絵もあったので、挿画にしておきます。

1985年 27cmx22.5cm 紙、ペン、色鉛筆
 この春、この学校に赴任してきて、我ながら驚いていることがあります。それは、自分自身がほとんど転勤のストレスを感じていないことです。正直なところ、最初の半年ぐらいは気疲れするだろうなあ、と覚悟していました。ところが、人見知りの私が、意外にもすんなり馴染んでしまったのです。その理由を挙げてみると、学校が落ち着いていて、皆が自然に受け入れてくれたこと、前の職場に近く、通勤経路も変わっていないこと、職員室に知り合いが何人かいたこと等々、確かにどれもその通りなのですが、一番大きかったのは、この学校に人を活かす雰囲気があることではないかと感じています。そして、ずっと前にも私は同じような経験をしていたことを思い出しました。
 30年前、大学を卒業した私は、どうしても教員になりたいという強い希望もないまま、何となく中学校の美術教師になりました。美術で食べていくのに、それ以外の選択肢を思いつかなかった、という消極的な就職理由でした。あの頃の自分のいい加減さを思い出すと、今も冷や汗が出ますが、ちゃらんぽらんで生意気な若造を、当時の先輩教師たちはおだて、励ましながら、根気よくチームの一員にしてくれました。まだ校内暴力の残り火が燻(くすぶ)っていた時代で、大変なこともありましたが、毎朝学校に行くことは苦になりませんでした。
 自分勝手な動機で始めた教員稼業でしたが、しばらく続けている内に、私の背中の後ろに小さな行列ができ始めていることに気が付きました。自分の一挙手一投足に反応が感じられるようになり、今更ながら教師というものの影響力を思い知りました。自分のためだけに働いていたつもりが、こうしていつの間にか社会に組み込まれることになって、ちゃらんぽらん教員も少しは成長しました。多少なりとも人から頼りにされていると感じるようになると、もう下手なことはできません。人間、どうも自分のためより、誰かのための方が生き抜く力が強くなるようです。
 「三つ子の魂百まで」と言いますが、ビギナーズ・ラックのような初任校での数年間は、何年経っても私の教員としての原体験であり続けています。当時は1学年7クラスと大所帯で、今の学校では考えられないようなトラブルもいろいろありました。でも、何かが起きる度に、少し年上の先輩教員を中心に、皆で同じ方向に力を合わせて乗り切りました。ひとりの教員にできることはたかが知れていますが、チームとして結束した学校は強いという信念は、あの時、同じ職場にいた若手教員全員の中に刻み込まれました。
 問題がないのが良い学校だと勘違いしている人がいますが、それは正しくありません。でも、元気な教員がたくさん巣立つ学校、もっと言えば、生徒の中からも「先生になりたい。」という声があがるような学校は間違いなく良い学校です。そして、私の嗅覚が正しければ、この学校は恐らくそういう学校のひとつだと思います。この年になって、また懐かしい空気の中で、ストレスなく過ごせることに感謝しています。