遊びについて ②

 今やもうなくなってしまいましたが、昔東京には70mmフィルムを上映できるシネラマ映画館がいくつかありました。そんな「テアトル東京」や「新宿プラザ」では、最前列中央に陣取り、湾曲した巨大スクリーンに囲まれるようにして観るのが、私にとって正しい映画鑑賞の仕方でした。せっかく映画館に入ったのに、後ろの席からテレビ状態のスクリーンを眺めるなんて興醒めです。やはり視界のすべてを画面で満たさなければいけません。全身でその世界に浸かることは、すべての「遊び」の基本だと思います。

 「仕事」では、常に結果を求められますから、効率が大切です。段取りを考えながら、時には没入することから自分を引き戻す客観性も必要になります。全身全霊でのめり込むことが、必ずしも仕事の評価に繋がらないのは言わずもがなです。それに対して「遊び」は主観的な現実肯定と言えます。自分の全人格で今この場を楽しむことが「遊び」であり、自ら目の前の世界に飛び込んでいかなければ何も始まりません。そう考えると、仕事は誰にでもできますが、本気で遊ぶことはなかなか簡単に見えて難しいかもしれません。全力を尽くしてよく遊ぶことは人が生きる動機にも目的にもなり得ます。恐らく真剣に遊べない人は仕事だってうまくいかないと思います。
 車のブレーキに遊びが必要なように、仕事の中にも「遊び」の要素はあります。段取りと経済効率だけの仕事ではあまりにも味気なさすぎます。殊に人と関わる部分については、個々の遊びのセンスが問われるところです。さて、今の映画界が、失敗できないビジネスとして、商業主義に流れるのはわかります。が、それにしても観たいと思える映画がひとつもないというのはどういうことでしょう。いつからか画面や脚本の均質化が進み、本気の「遊び」が感じられない同じような作品ばかり増えました。エンターテイメントの水準を満たした上で、人間としての懐の深さを感じさせてくれる、トリュフォー黒澤明作品のような映画を久しぶりに大画面で観たいものです。