表現と再現③

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 絵画の模写に比べると、立体の模刻はその何倍も手間がかかります。ピアノソナタと交響曲くらい違うと言ってもいいかもしれません。一つの方向から見て「できた!」と思っても、別の角度から見ると「全然ダメ」なんてことが当たり前に起こります。カバーであっても、それはオリジナルの小さな絵を何枚か描くより、余程 時間と労力を要します。

 やはり表現でも再現でも、つくる側からすると、あまり変わらないかもしれません。再現は、既に完成された元ネタに従えば、全体の構成や骨格を考える必要がないという点で、確かに楽な気もします。その代わりに表現と違って、逸脱が許されないという縛りもありますから、形にする苦労はまあ、どっこいどっこいでしょう。手間が同じでも評価されない分、カバーは割が合わないとも言えますが、表現者が自分の狭い部屋に引きこもらない為には、古典から学ぶことがどうしても必要です。となれば、模写や模刻を避けて通ることはできません。「学ぶ」の語源は「真似ぶ」であり、全ての人はそこからスタートするしかない訳ですから。 

 よく素人バンドの世界で、オリジナルに忠実に演奏することを完コピなんて言ったりしますが、本来、完全な再現など絶対にできないという前提あってのアートだと思います。どんなに性能の良い3Dコピー機を使っても、全ての材質を揃えて、800年前の仏像を再現することなど不可能です。ましてや一人の人間が、自分の眼(感覚)と手(身体)だけで古典をなぞってみることなど、全く取るに足らない試みにも思えます。しかし、敢えてそれをやってみる者にしかわからない「なりきる楽しみ」というのが、実はそこにあるのです。自分でギターを弾き、歌ってみないと経験できない、言ってみればアートの本質に触れる喜びが、再現する行為には宿っています。出来上がった作品の価値だけでは決して計り知れない要素が、アートの中には潜んでいるのです。ただ それは行動しない人には、まず理解してもらえないことでしょう。

 さあ、重源上人の姿が少しずつはっきりしてきたところで、次の仕事が待っています。一体これは何を作っているのでしょうか?ヒントは小さな丸いピースの数です。

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 答えは…重源上人の手に掛ける数珠です。私は毎週2〜3本ずつワインを空けますが、ある晩 そのコルクが丁度使えそうだと閃き、およそ2ヶ月分を輪切りにして角を削り、穴を開けてみました。一つずつ漆塗りをしていくと、それは全く想像力のかけらも必要としない単純作業でしたが、1時間半〜2時間くらいかかりました。映画一本分です。ちょっと虚しい気もしますが、ものをつくるというのは、結局こういうことの繰り返しです。華やかな場面なんて一つもありません。ほとんどは地道な作業の連続です。ただ、その結果、煩悩の寄せ集めの様な、(何たって酒の栓でできてるんですから!)矛盾と風刺に満ちた数珠が出来上がるってことは、ちょっと面白いとも思うのです。

 さて、今回、重源上人坐像をつくりながら、ずっとバーンスタインが指揮したマーラーの交響曲全集なんて聴いていたのがまずかったかもしれません。作曲家とか指揮者とか、漠然と考えているうちに、表現やら再現やらについて とりとめなく書き散らしてしまいました。文字通り「際限」がないので、「私にとっては、オリジナルもカバーも、つくることに変わりはない。」という、わかりきった結論をもって、この辺でやめておこうと思います。