遊びについて ①

 地球の反対側、Kladnoの山田さんとコメントのやり取りをしていて、思い出しました。そう言えば私は、遊びが「遊び」でなくなってしまう分岐点というものをはっきり意識したことがあります。
 もう十年以上前になりますが、台風が近づいた海に一人で入ったことがありました。その日、東京からやって来た友人たちのために、新鮮な魚貝を獲るつもりでした。夏になると、毎日のように海に通い、自分で食材を調達していましたから、少々波が高くても何とかなると思っていたのがバカでした。
 浜の近くは水が濁っていたので、少し沖に出てみましたが、潜ってみてもやはり何も見えません。それどころか、まるで洗濯機に投げ込まれたように、波と渦に揉まれ、とても獲物を狙える状況ではありません。これは漁を諦めて、真剣に岸に戻ることを考えなければ危ない、とようやく気づいてからが大変でした。迂闊に近寄ると波で叩きつけられるので、岩のそばは危険です。かと言って、岸に戻るにはどうしても岩の群を抜ける必要があります。なるべく深さのある進路を選びつつ、浜を目指しましたが、時には一つの波で2〜30メートル持って行かれることもありました。「死ぬかもしれない。」と覚悟を決めて必死で頭を守りながら、打ち付けられた岩にすがり付き、身体中傷だらけで、しかし運良く、何とか生還しました。
 そのことがあった後、海が怖くて二度と入れなくなってしまった、という訳ではありません。台風が去ってから、使えなくなったフィンを新調して、またすぐに潜ってみました。が、もう以前のように、海の中にいてわくわくするということがなくなっていました。「飽きた」とも言えます。しかしもっと正確には、最早、自分が素潜りという「遊び」に本気で向き合えていないことを、あの日にはっきり自覚してしまったということにつきると思います。少し考えれば、危険を冒して荒れた海に入ることがどれ程バカげたことかわかるはずです。が、私は楽しむことを忘れ、波の下まで潜れば何か獲れるだろう、と全く舐めきっていました。海を畏れる気持ちがなければ、真剣味は薄れます。真剣さのない所に本当の楽しみはありません。

 本居宣長がなぜ学問をするかと問われて、自分はただ若い頃から書物を読むことを好み、その世界を信じ、そこに身を置くことを楽しんでいるだけだ、というような答え方をしています。「遊び」とはまさにそういうものだと思います。「好み」「信じ」「楽しむ」ためには決して手を抜かない。徹底してやりたいことに取り組む姿勢が大切です。その意味で、「遊び」の質は人生の豊かさを表すと言えるかもしれません。