学校 ②

 今の若者は大変です。せっかく夢叶って教員になった途端、研修や報告をテトリスみたいに隙間なく詰め込まれ、身動きが取れないほど忙しい思いをしている人がたくさんいます。毎日、次の日の授業準備をするのも精一杯で、一体自分は何のために教員になったのか、振り返る余裕もありません。でも、そこは大事なところです。教員とは何か?学校とは?自分の日々の労働に価値はあるのか?生徒にとって自分との関わりは意味を持っているのか?自分はいい教員になれるのか…。40人の前でも気負わず自然に話すために、そもそも自分はどうして教員になりたいと思ったのかを忘れずにいることは大切です。
 もっとも私の場合、あまり偉そうなことは言えません。学生時代、特に学校が好きだった訳でもなく、どうしても教員になりたいという強い希望もありませんでした。何となく始めたものの、それでもこうしてずっと続けているうちに、この仕事の意味や価値が少しずつ見えてきました。

イサム・ノグチ2011-03-28 - 村上力(むらかみ つとむ)ブログ美術館
 どんな仕事をするにせよ、まずは自分のためです。社会で一人前に稼いで、その範囲で自由に過ごすことが第一歩でしょう。教員だって若いうちは、給料を貰ったらいい服を買ったり、美味いものを食べたりするべきです。自立した社会人として、生きることを楽しんでいる姿を見せることは決して悪いことじゃありません。モデルを求めている生徒たちに、大人になると面白い、ということを身をもって示せばいいのです。そうこうしているうちに、自分の背中の後ろに少しずつ行列ができているのがわかってきます。自分の一挙手一投足に反応が感じられるようになり、今更ながら教師というものの影響力に気が付きます。いい時ばかりじゃありません。教員のくせに、失敗しても謝らなかったり、人のせいにしたりすると、もう大変です。高い所で背中を押されかねません。
 自分のためだけに働いていたつもりが、こうしていつの間にか社会に組み込まれることになって、教員も成長していきます。自分が周りの人から必要とされていると感じるようになると、ちょっとやそっとでは挫けないばかりか、風邪もひかなくなります。人間、どうも自分のためより、誰かのための方が生き抜く力が強くなるようです。仕事上で何か躓きがあった時、自分一人なら簡単にやめることもできるでしょうが、一旦この「社会的責任」という奴を意識してしまったらそうはいきません。そのうち、人のためでなくては仕事のモチベーションを保てなくなっている自分に気づくことになります。
 学校で教員は、勉強だけでなく、友達を叩いてはいけないということから給食の食べ方まで教えます。人が大勢いれば、いろいろと交通整理も必要になるのは仕方ありません。が、我々の仕事の本分は何と言っても「文化の連鎖」を繋げていくことだと思います。教科に限りませんが、人として尊重すべきは文化であり、その積み重ねの内に自分自身もいることを知るために学校はあると言っていいでしょう。日々、教養を高め、いろいろな時代の人間の生き方を反復しながら、その視点と言葉を後の人たちに手渡していくのが教員の一番大切な役割だと思います。一人の人間はいずれ死にますが、文化はパスしていけます。ただ、そのパスの方法が限られています。親になり一子相伝で残していくか、作家になって後世に作品を残すか、さもなければ教師になって人を残していくかです。人が教師になるという決心の中には、恐らく、意識的ではないにせよ、そうして歴史に加担しようとする本能が働いているに違いありません。