彫刻について ③


「父の像」(「昭和」2011-11-06 - 村上力(むらかみ つとむ)ブログ美術館より)
 誰かをモデルにして彫刻を造るとき、そこでは親密な対話が進行しています。と言っても実際に声を出して話すわけではありません。目の前にいる身内や友人を直接描写する場合、「ちょっと右向いて」ぐらいのことは言いますが、ほとんどは沈黙したまま時間が過ぎていきます。モデルの方も最初のうちこそ興味津々で質問したりしますが、そのうち飽きてきます。ですからなるべく楽な姿勢で本でも読んでいてもらいながら、私は無言の対話を続けます。イルカやコウモリが超音波で物との距離や形を判別するように、声の代わりにいろいろな深度の視線をぶつけて弾力や凹凸をトレースし、像を肉づけしたり削ったりしていきます。
 今ここにいない人を造る場合はできる限り写真や映像を集めます。しかしそれにも増して重要なのはモデル自身が表れた記録や作品です。私はたった2枚の写真で半身像を造ったことが一度ならずありますが、生きた言葉や仕事さえ残っていれば遥か昔の人を理解することもそんなに難しいことではありません。想像力なんてものは多分そのため、つまり手掛かりを掴んだ人が時間や空間を跨ぐためにあるものだと思います。写真と写真の隙間を対話で埋めながら、いない人を見える形にしていくのが私にとって彫刻制作のひとつの醍醐味です。
 さて、モデルが目の前にいるにせよ、いないにせよ、誰かを造ろうと思ったら、その人になりきることが大切です。感情移入なんて生易しいものではなく、時には相手から憑依されるように一体化することも必要になってきます。でも、それだけじゃ造れません。ものの形をとらえるためには一旦外に出て、離れて見なければ無理です。自刻像を造ろうとすれば、自分の姿さえ対象として突き放す必要があります。ただ単に誰かにのめり込むだけでは、崇拝とか洗脳と同じく、一方的な関係に過ぎません。相手に憑りつかれながら、同時に背後に回って首根っこを押さえる力がなければ、本当に緊張感のある作品はできません。だからこそ造ることは対話であり、何よりわくわくする冒険ともなり得るのです。