學校 ③

 ニヒリスティックに言えば、人がつくったものの中で一番美しいのは、遺跡だと私は思います。「日本のマチュピチュ」と呼ばれる(のはちょっと気の毒ですが)竹田城跡など見応え充分です。平地からボコっと盛り上がった山の稜線に、温かい砂色の巨石が寝そべる様に連なっています。自然石の抽象彫刻は日本中至るところにあります。でも、この戦国時代の風化した石垣に勝る作品を、私は観たことがありません。ずっと昔、何か目当てを持って建てられたものが、時間の経過と共に当初の目的を失い、純粋無垢な自然の造形になるのでしょう。最早、建築工事に携わって死んだ過去の人々も、蟻塚を拵えるシロアリや鍾乳洞を穿つ水と同じく、自然の一部でしかありません。こうして歴史の遺構は美しく景観に溶け込んでいきます。

 明らかに人為的な破壊による廃墟でさえも、時間が経てば自然物の様相を呈してきます。原爆ドームがそうです。むしろ回復不能なまでに機能を奪われてしまったからこそ、自然に帰るのも早かったと見えます。残虐な生物による共食いの痕跡を留めながら、丸々発掘されたジュラ紀の化石の様に、原爆ドームは佇んでいます。負の世界遺産の痛々しくも有機的な姿は、このまま後世に残さなければいけません。

 ピラミッド、パルテノン神殿、原爆ドーム….世界中の遺跡や廃墟を眺めながら、私は歴史が麻布の色をしていることに気づいてしまいました。今回の「學校」は、それだけでもう出来上がったも同然です。あとは、モチーフに一捻り欲しかったので、本棚とバベルの塔に原爆ドームを接木しました。

 全ての美術作品は、何もない所からいきなり現れてくる訳ではありません。寧ろほとんどの作品は作家が見たものの変奏に過ぎないとも言えます。興福寺の憂いを帯びた阿修羅像のオリジナリティがよく言われますが、あの元ネタがそれより20年ちょっと前に造られた法隆寺五重塔の北面下にあります。釈迦入滅場面を描いたジオラマ中に、神妙な表情の阿修羅塑像が鎮座しています。髪型、服装、躰つきまで非常によく似ています。興福寺像が憤怒相でないことの説明もそれでつきます。

 有名な絵画作品「バベルの塔」は、ブリューゲルがローマに旅行してコロッセオを見物した後に、それを螺旋にするアイデアを思いついて描かれたそうです。そう聞くと、身も蓋もない様に感じるかもしれませんが、小さな変奏の積み重ねによって人の世が(良くも悪くも)大きく変わってきたことは確かです。

 さて、TARO美術館に作品「學校」を設置してから、そろそろ二月になります。組み立てた時は必死で気づきませんでしたが、今、冷静に会場で観ると、色々粗が目立ってきました。ここからは純粋に造形家として、作品をより完成に近づけたいと思います。会期終了後の手直しをあれこれ算段し始めました。次回展示の際には、もうちょっとブラッシュアップした「學校」をお見せできるはずです。

學校 ②

2024年 430cm×450cm×450cm  mixed media 

 私の造形制作における基本原則がいくつかあります。取り敢えず思いつくままに挙げると…。

①一人でつくるということ。私自身がとてもせっかちで衝動的なので、人との協働に向いていません。それに、美術制作=優雅な活動と勘違いされがちですが、ほとんどは単純な肉体労働です。今回のバベルの塔について言えば、アーチ上のどうでも良い四角の小窓だけでも250以上あります。切傷の絶えない虚しい作業は何時間も続き、やっぱり気に入らないからやり直しなんてことはしょっ中です。誰かに頼む訳にはいきません。自作の奴隷は自分一人で充分です。

②造形作品に時間の要素(音響、映像、動力などによる動き)を入れない。人間である以上、美術だけでなく、全ての表現のテーマが「時間」だと私は思っています。そのためにピカソはキュビズムを捻り出し、プルーストは何千ページも費やして時を見出そうとしました。ハイデガーが存在と対置したのは、不在や無ではなく、時間でした。もちろん表現方法によって時間の捉え方は様々です。既に流れをその内に含む、音楽や映像のアプローチは造形表現と違って当然です。ただ美術作品の中に中途半端にそれらを取り込むことが、強い表現に繋がると私には思えないのです。数分ごとに繰り返される映像や音声の断片によって、美術作品が持つ無時間性というアドバンテージをみすみす手放している例はいくらでもあります。「時間」をコマ切れの試食品みたいにしてしまってはいけません。

③「死」を具体的に表現しない。死に限らず悍(おぞま)しいものはつくらない。それは禁じ手です。死体や残虐なものが人の目を引くことは確かですが、それを実際に描くのは反則でしょう。今さら教員ぶって公序良俗を言うつもりはありませんけど、そこは品性の問題です。私が中学生の時、ライオンが人間を喰い殺す「グレートハンティング」という仕様もない映画が流行ったことがありました。美術作品におけるリアリズムも行き着くところは本物の死体、猟奇殺人となりかねません。「メメントモリ(死を想うこと)」は大切ですが、それと死体を表現することとは別です。論理的に何故いけないのか説明できないとしても、ダメなことはダメなのです。

 ただし例外はあります。今回のレヴィ=ストロース像は木工家の友人がつくった椅子に座っていますから、共同制作と言えなくもありません。木彫時計を作ればムーブメントと針は取り付けますし、絶命した小鳥や蝉をスケッチしたこともあります。そんな訳で、あくまでも原則なので厳密にではないですが、少なくともこの辺は意識しながら作品をつくっています。古い奴だとお思いでしょうが。

 

學校 ①

2024年 430cm×450cm×450cm 麻布、樹脂、漆、木、鉄、発泡スチロール、本、机、椅子、他

 3月に入りました。そろそろ写真を出しましょう。現在TARO美術館で展示中のこの作品「學校」について、パンフレットに載せた私のキャプションは以下の通りです。

 1968年の夏、小学一年生の私は東京から広島に転校した。初めて見る原爆ドームはとても渋くてカッコよかった。幼い私の中に歴史的なモノが意識された 最初の経験だった。

 さて、これは建築途中のバベルの塔ではない。完成されぬまま放棄された廃墟である。歴史はこんな風に、時計回りに螺旋階段を下ってきて、現在と繋がっている。そう。確かに歴史は生きている。但し現在と接する、まさにその境界でのみ生きられるに過ぎない。貝殻を後に残しながら、入口だけ粘膜に覆われて成長し続ける巻貝の様に。その最前線はぐにゃぐにゃしていて心許ないが、唯一生命の宿る場所であることは間違いない。そして、私はそこを「學校」と呼ぶのである。

 こんな書き方をすると、かなり理屈っぽく聞こえるかもしれませんが、別にコンセプチュアルアートにするつもりはありません。自分の手は汚さず、既成のものを意味あり気に展示してみせるというのは、私の最も苦手とするところです。造形作品はあくまでも観る(見せる)ものであって、読む(語る)ものになってはいけません。ただ今回は色々な思い入れがごった煮状態に積み上がってしまったので、プロットを少し整理しておく必要がありました。専任教員として勤めながらつくった最後の作品ということも関係あるかもしれません。簡単な説明がないとガラクタの山になりそうでした。パッと観てわかりにくい作品にするのは不本意ですが、それ以上に、ここら辺で一つ自分の中の区切りをつけておかなくては、という気持ちが強かったということです。多少ごちゃごちゃしても、喉の奥に詰まっていた塊を吐き出すことを優先しました。

 2年前、巨大なピカソの顔をTARO美術館に展示していた頃でしたが、家の自分の部屋でふと考えました。「周り中、大量の本と自作の彫刻で溢れたこの濃密な空間で、どうして私は寛いでいられるのだろう?」そこで気がつきました。「そうか。ここは私の脳の中なんだ!」そう言えば、環境を自分の脳化していくのが人間の特徴であると「唯脳論」にも書いてありました。

 では、この自分の脳内を人に観てもらうためにはどうすれば良いか?自分がその中にいる部屋を、Tシャツを脱ぐみたいに、裏表ひっくり返して立ててしまえば、自分の脳の彫刻ができるんじゃないか?これが制作のスタートでした。観る人にどう思われるかはわかりません(これまでのところ余り芳しい反応もありません)が、私自身は2年掛の作品を発表できて満足しています。壮大な悪魔祓いがやっと終わった様な清々しい気持ちです。

 

木彫アルバム

2023年 22cm×22cm×厚さ5cm 桂材、塗料、アルバム台紙、金具

 TARO賞展会期中、出品作家は閲覧用のポートフォリオを会場に置かねばなりません。前回のファイルをそのまま出してしまおうとも思ったのですが、ちょうど中学2年生が制作中のアルバム用桂材(12mm厚×2枚)の余りがあったので、新たに作ることにしました。

 表紙は今回出品した私の作品「學校」、裏表紙は岡本太郎の墓を飾っている彫刻「午後の日」をレリーフにしてみました。

 今までの私の作品写真を綴じたこの木彫ポートフォリオは、岡本太郎美術館の企画展示会場を出たところにあります。どうぞ手に取ってご覧ください。

 

 

TARO賞展

 第27回岡本太郎現代芸術賞展が本日から始まりました。私の出品は21,23,25回展に続いて四度目になります。奇しくも奇数回ばかりですが、流石にこれだけ広い展示スペースを、毎年毎年納得する形で埋め尽くすのは不可能です。今回の私の作品アイデアは、25回展開催中に会場で思いついたものですが、初めから26回展ではなく27回展をターゲットにして、2年がかりで完成させました。

 いつも同じ様なことばかりしていては仕方ないので、展示方法についても少し考えました。広い空間があると誰もが陥るインスタレーションというやつは実際どうなんだろう?安易な罠じゃないだろうか?ってことです。そこで、5m四方のブースに引き篭もるのはもうやめて、カオスの中心に塔を建ててしまおう!というのが今回の私の計画でした。そういう訳で、観る人が中に入るインスタレーションではなく、あくまでも周りから観る彫刻をつくったつもりです。

 まあ、何はともあれ、現物を観てもらわないことには始まらないので、作品写真を掲載するのはもう少し先にしておきます。今回、またまた特別賞ということで、週末や休日はなるべく在館するつもりです。でも、きっと暇を持て余していることでしょう。誰もいない時、冷やかしにでも寄ってもらえると有り難いです。