哲学について ①

 「君の絵には哲学がない」と誰かに言われたことがあります。だいぶ前の話なので、どんな状況だったのか忘れてしまいましたが、今にして思えば、それは主題が一定していない、つまり節操がないというような意味だったようです。現代の日本で「哲学」という言葉は少し偉そうな主義や思想程度に捉えられているようです。が、最近、哲学者(反哲学者?)木田元(きだ げん)さんの著書を何冊か読んでみて、どうもそうではないらしいことがわかりました。木田先生によると、「哲学(フィロソフィ)」というのは歴史的に見れば非常に限定された期間に、やはりとても限定された地域で興ったある特殊な考え方の系統ということになります。

 紀元前5世紀のソクラテスから哲学史は始まります。それ以前のギリシャにもヘラクレイトスとかピュタゴラスとか、たくさん思想家はいましたが、「フィロ(求める)ソフィア(知)」という言葉を最初に使ったのがソクラテスでした。更にその弟子のプラトンイデア論という考え方を持ち出したところから、フィロソフィアは体系的な学問になっていきました。かなり乱暴に説明すると、プラトンはあらゆる物の実体の上に「イデア」という見えない理想形(因みにギリシャ語のideaとは見える姿という意味なのですが…)を設定しました。こうして自然・ものに対して、観念を一段高い立場に置くことで、結果的には肉体を超越した精神至上主義が確立されたのです。
 その後のヨーロッパの歴史はこの人間精神による世界の解釈、コントロールという形で進むことになり、デカルトニュートンから産業革命植民地主義、工業化、都市化へと真っ直ぐにつながっていきました。その意味で、哲学とは徹頭徹尾プラトニズム(プラトン主義)であると言っても良いかもしれません。
 一方、古代中国や近代化以前の日本では、老荘思想に始まり諸行無常の世界観のように、人間精神を自然と切り離さずに捉える考え方が主流でした。西洋と東洋の自然観の違いは、シンメトリーな幾何学模様に作られたフランス庭園と自然の景観を再現した日本庭園にも表れています。自然(環境)を征服支配しようとする西洋に対して、嘗ての東洋で(今やすっかりグローバリズムに呑み込まれてしまいましたが)人は自然と共にあることを大切にしていました。
 実はギリシャでも、ソクラテスの時代までは自然と共に生きるスタイルが支配的でした。19世紀末、ニーチェは非人道的な文明化をもたらしたプラトニズムの終焉を「神は死んだ。」と宣し、再び人が自然に抱かれて生きた時代に戻ることを説きます。ニーチェの言う「神の死」は哲学=プラトニズムの限界でもあったのです。
 さて、今の人は平気で「東洋哲学」とか「野球哲学」なんて言葉遣いをしますが、考えてみればおかしな話です。繰り返しになりますが、哲学=「ソクラテスから19世紀末までのヨーロッパ思想」ですから、それ以外の時代や場所にはありません。こういう場合、正しくは東洋思想、野球論と言うべきなのでしょう。ニーチェに続く20世紀以降のヨーロッパ思想について、木田先生はプラトニズムからの脱却を図っているという意味において「反哲学」という言葉で説明されています。実際、メルロ・ポンティなどは自分の思想について「アンチ・フィロソフィ」という言葉も使っているそうです。つまり、もう哲学というものは過去にしかないというわけです。
 でも、日本には相変わらずこの言葉を使いたがる人がたくさんいます。今更「哲学がない」と言われるのもどうかと思いますが、当時の私の絵が相当いい加減に見えたことは間違いありません。尤も「哲学」という日本語自体かなり適当で、「希(フィロ)哲(ソフィア)学」からいつの間にか「希」が消えて本来の意味をなさない言葉になってしまったそうですから、小賢しくて気持ちのない絵を褒めるのに「哲学的」と言っておけば丁度いいかもしれません。