斑(まだら)の皮膚

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 初期の印象派展で「死斑のういた腐った肉の塊」と酷評された、ルノワールの絵があります。「陽光の中の裸婦」(1876)は、今でこそ世界各国の展覧会で引っ張りだこの作品ですが、まだ古典的なサロンが影響力を持っていた19世紀のパリでは、粗く雑な表現と看做されました。印象派そのものも、現代では既に古典と化した感がありますが、当時は人々の理解を超えた革命的表現でした。

 パレット上で混色した絵具をできるだけムラなく、筆触を残さない様に塗る古典描法と違い、光を表す明るい色面や色点をあまり混ぜずに並置する、印象派の方法で描かれた絵は、観る人の目を揺り動かす効果がありました。鑑賞者は自ら網膜〜脳上で混色、形の解析を行うことを強いられる様になったのです。観ることを単に受動的な行為に留めない、その描画法が20世紀絵画の扉を開いたことは、今となっては当然の成り行きに思えます。

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 色斑並置の効果は彫刻の場合にも、そのまま当てはまります。恐らく800年前には、均質な肌色でムラなく塗られていたであろう「無着・世親像」や「重源上人坐像」ですが、年月と共に風化、退色、剥落して今の斑の皮膚になったことで、よりリアルさを増したと感じるのは、私だけではないはずです。マネキンの様に肌全てを単色で塗られた像にはない、実在感が顔や手に宿り、斑模様の皮膚からは表情と言えるものさえ溢れてきます。モデルが老人だったことも、違和感なく古色が馴染む理由なのかもしれませんが。

 とにかく、「斑の皮膚」の表現力を利用する為、私の作品では意図的に粗い麻のテクスチャーを残し、そこに疎らな胡粉下地や色を変えた漆で着彩しています。私にとって、のっぺり均質でフラットというのは、何事においても我慢ならない退屈さの象徴であり、時間をかけて観る価値のないものでもあります。そんな訳で、私はいつも作品上に、「斑の紐」ならぬ「斑の皮膚」をつくることに腐心していると言っても良いでしょう。「斑の紐」は操ることの難しい刺客でしたから、それに比べれば視覚を操る「斑の皮膚」なんて平和で可愛いもんだと思います。ホームズには「くだらない!」と怒鳴られそうですが。