PW〜生きている俘虜〜


2017年 高170cmx幅170cmx奥行145cm 麻布、樹脂、漆、木、鉄、他
👉🏿2017年3月7日〜23日 京展(京都市美術館)に出品
 俘虜は一般に捕らえられた兵士であり、ただ祖国へ帰る日を待って暮していると考えられている。しかし私の見たところによれば、俘虜は「兵士」でもなければ「待っている」わけでもない。彼等は既に戦闘力がないという意味で兵士ではなく、俘虜収容所の生活の必要は彼等に「待つ」ことを許さない。彼等は生きねばならぬ。
 彼等はPrisoner of war(戦争の囚人)という字句の示す通り、正に囚人であるが、彼等が個人として犯した罪によって幽せられたものではない。ただ彼等の兵士という身分が、敵国にとって有害であるから幽せられたのである。しかし彼等は必ずしも自ら望んで兵士となったのではなかった。
 彼等はその兵士としての自由(つまり戦う自由)を捨てた(或いは捨てさせられた)代償として、個人の自由(つまり生きる自由)を得た。ただ遺憾ながらその個人の理由によらず幽せられている。
 俘虜の唯一の希望は無論いつか解放されるということである。しかし俘虜の刑期は不定であり、「待つ」目標がない。それに「待つ」とは生きることではない。
 俘虜も毎日を生きねばならぬ。しかしこういう状態で生きることを、真に生きるといえるであろうか。
大岡昇平著「俘虜記」(新潮文庫)より抜粋〕

 大岡昇平が「俘虜記」で描いた、レイテ島の俘虜収容所での体験と、現代の日本人を取り巻く状況は、経済のことさえ除けば、大して変わっていません。そろそろ戦後72年になると言うのに、私たちは相変わらずPW(Prisoners of War)としてここにいます。
 ペリー・ショック以降、或いはもっと前から染み付いた阿諛追従(あゆついしょう)体質とくだらない選民意識を自覚しないことには、私たちは永遠にこの柵の中から出られません。せめて自身に付けられたPWの刻印を直視すること。ここにいながら自らの精神を解放する方法はそれ以外にありません。